四谷のお岩さんと鶴屋南北

お盆の後には暑い日が続いた。この間、どうすれば涼しくなるかというテレビ番組が放映されていた。笑えないギャグを発すると「さむー!」というが体温は下がるのか。お化け屋敷に入いり怖いものを見ると体温が下がるのか。といった実験をまじめに行っている。

結果は、使えないギャグを発すると言った本人の体温が下がる。怖い思いをすればその本人の体温が下がるというものだった。どちらでもいいが、とりあえず熱い。くだらないシャレで自分の体温を下げながら、四谷のお岩さんを参ってこよう。

四谷三丁目で降りたかったので、中央線で四谷まで行き地下鉄に乗り換える。鶴屋南北のことが頭にあったので、南北線に乗りそうになったが、丸の内線に乗換え四谷三丁目で降りる。

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四谷三丁目の交差点から信濃町に向かう広い道路の両脇は、台地になっている。四谷怪談の舞台は、この高台にある四谷左門町だ。今日は少し曇っていたが、さわやかな風の吹き抜ける場所だった。

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江戸の初期、このあたりは武家屋敷の立ち並ぶ、なかなか格式の高いお土地柄だった。そこに徳川家の御家人である田宮又左衛門の屋敷があった。又左衛門の娘がお岩。

外苑東通りの左門町で左折し、少し路地に入ると住宅地の中に、「於岩稲荷田宮神社」通称「お岩稲荷」が祀られている。江戸時代後期に、戯作者鶴屋南北が「四谷怪談」という芝居を造り、大当たりさえしなかったら、この稲荷神社は福徳をもたらす稲荷としてもてはやされた筈だ。

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於岩稲荷田宮神社には、ご自由にお持ち帰り下さいとして、『東京のお寺・神社謎とき散歩』の内容を引用したコピーが置かれていた。

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岸乃青柳著『東京のお寺・神社謎とき散歩』より
お岩は夫の田宮右衛門とは人もうらやむ仲のいい夫婦だった。ところが30俵3人扶持というから、年の俸給は16石足らず。台所はいつも火の車だった。そこでお岩夫婦は家計を支えるために商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷神を信仰していたおかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
信仰のおかげで田宮家は復活した、という話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を『お岩稲荷』と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、『お岩稲荷』と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりではなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。
それからは「於岩稲荷」「大厳稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全,無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。


当時の人たちはお岩さんが毎日信心している神さまにご利益があると考えたのだ。
あの信心のおかげで、田宮の家には富がもたらされ、また昔のような勢いを取り戻したのにちがいない。なんとまあ、ありがたい神さまじゃああるまいか。俺もお岩さんの幸福にあやかりたい。ひとつその屋敷神でも拝みにいこう。こうして左門町の「お岩稲荷」は生まれたのだ。
鶴屋南北はそのお岩さんをなぜ、あのおどろおどろした四谷怪談のお岩に変貌させたのか。

江戸でも評判の「お岩稲荷」は、まるで市民生活の幸福の象徴のようにして、左門町の気持ちのよい台地の上にあった。その人気は、四谷怪談の作者となった飾屋南北が台本作者として有名になっていた頃にも盛んだった。お岩夫婦の生きていた頃から、200年も後のことである。

歌舞伎芝居の役者たちは「河原者」と呼ばれて、低い社会的評価しかあたえられていなかった。たいがいの売れない役者や台本書きたちはスラムに住んでいることが多かった。
そういう芸人たちの暮らすスラム街が、お岩稲荷のある四谷左門町の高台の崖下にえぐられたように続く回廊の南端、東京オリンピックのときに跡形もなく消されて、公園に塗り固められてしまった、「鮫河橋」と呼ばれる大きなスラム街の一角にあった。
鶴屋南北とその仲間たちは、彼らが日頃、空をあおぐようにして見上げているあの台地の上に建てられた、評判のお岩稲荷の話を聞いていた。そして、怪談話を芝居に仕立てようという話になったとき、彼らの頭に浮かんだのが、この幸福の象徴とも言うべき高台の神様を、とてつもないかたちに変容させてしまおうという不穏なもくろみだったのだ。

中沢新一「アースダイバー」より妙録。

左門町から東へ行くと、須賀町の須賀神社がある。ここは四谷の総鎮守で、三十六歌仙絵がある。
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さらに、服部半蔵の墓のある西念寺を通って、四谷に向かう。
四谷から赤坂御用地の入口には迎賓館がある。

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赤坂迎賓館は、明治42年に東宮御所として建造された洋風宮殿を明治49年に迎賓館としたものだそうだが、開館後30年以上が経つので改修工事を行っている途中だった。

赤坂御用地を青山一丁目方向にしばらく歩くと、みなみもと町公園がある。

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このあたりはもともと河原であり鮫河橋がかかっていた。今は埋め立てられてみなみもと町公園に変わっている。でもこのあたりの坂は鮫河橋坂として地名だけが残っている。数100メートルおきに警備の警官が見守り立ち番を行っている。みなみもと町公園のすぐ横には、皇居警察本部がある。鶴屋南北もこれを見ると驚くだろう。

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四谷怪談
文政8(1825)年、『東海道四谷怪談』の題名で江戸・中村座で初演された。芝居には、当時の巷説や事件が脚色されている。主人殺しの直前権兵衛の話、体を結び合った心中者の死体が砂村の堀に流れついた事件、密通した旗本の妾が男と一枚の戸板に釘付けされて川に流きれたといううわさなどである。
落語では三遊亭圓朝が有名だが、何度も映画化もされ、いろんな種類がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E6%80%AA%E8%AB%87

四谷のお岩さんの顔を醜いものに変貌させるという発想は、お岩さんの名前からきたのかも知れない。

醜い容姿をした女性の代表と言えば、日本神話の「磐長姫」がいる。
日本書紀のイワナガヒメ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E9%95%B7%E5%AA%9B%E5%91%BD
コノハナノサクヤビメとともに天孫ニニギの元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。オオヤマツミはそれを恥じ、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。

日本書紀では、妊娠したコノハナノサクヤビメをイワナガヒメが呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。話はそれるが、「きみがよ」のさざれ石の巌が、岩をさすのであれば、この神話を受けてのアンチテーゼなのだろうか。

いずれにしても、鶴屋南北の中で、お岩さんは、ふためと見られない醜い容貌になり果てる必要があった。夫はお岩を裏切り、夫とその愛人にいびり抜かれたあげくに、陰惨なやり方で殺されることになる。そして恐ろしい怨霊となった彼女は、関係者をつぎつぎと崇り殺していくのだ。

『四谷怪談』は四谷の話ではありませんとして、わざわざ『東海道四谷怪談』というタイトルで上演された。しかし、誰の目にもそれが四谷左門町の田宮家のことを題材にしていることははっきりしている。芝居の評判を聞かされた田宮家のご当主は、芝居小屋に出かけてみてびっくりした。すぐさま抗議を申し入れたがもうあとのまつり、歌舞伎の世界にそんなまともなやり方が通用するはずもなく、けっきょくの神様であった「お岩稲荷」は、おどろおどろしい怨霊劇の舞台に仕立て上けられていってしまったのだそうだ。

お岩さんが祟るべきは、この鶴屋南北であるのかも知れない。いやいや、イワナガヒメは醜いけれど心のやさしい人であったと日本書記には記されている。お岩さんもそんな了見の狭い人ではないだろう。今も参っている人は、本来のお岩さんの福徳にあやかりたいとして拝みにいっている筈だ。

この後、乃木坂を回って赤坂から帰ったのだが、長くなったのでこの次にしよう。
お岩さんではないが、宮沢りえのすすめる伊右衛門茶を飲みながら休憩としよう。

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