奥州平泉 源義経と松尾芭蕉

松尾芭蕉は隅田川沿いにある芭蕉庵から、北千住をスタート地点とし、約半年をかけて日光・平泉・金沢・大垣とまわる「奥の細道」の旅に出る。折り返し点は平泉だった。仙台にまで行く用事がある。ついでに以前から行って見たいと思った平泉に旅してみよう。宮城も岩手も今まで行ったことがない。

上野駅から、東北新幹線「はやて」に乗り、一ノ関で東北本線に乗り換える。一ノ関からは山ノ目を経て二つ目の駅が平泉だ。平泉の駅の横には義経の正妻である源義経公北の方牛車が置かれていた。

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着いた時に小雨が上がったので、駅近くのレンタサイクルを借りることとした。コピーした平泉ガイドマップ一枚を渡され、店の人は赤鉛筆でサイクリング・コースをなぞりながら説明してくれた。とりあえずその通りに走ってみよう。

駅から500メートル程、北に走れば無量光院跡があり、柳の御所資料館がある。無料の資料館では平泉、奥州藤原三代についての説明がビデオで行われていた。平泉に行きたいと思っていた目的は中尊寺だ。ここについては別に記すことにしよう。

さらに、600メートル程北に走れば、北上川に沿った高台に義経終焉の地という伝説を持つ高館タカダチ義経堂ギケイドウがある。高台からは北上川が一望できる。

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http://www.motsuji.or.jp/gikeido/

兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられる。しかし、文治5(1189)年、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害した。

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ちょうど500年後、松尾芭蕉が門人・河合曽良カワイソラを伴い、平泉を訪れたのは元禄2(1689)年。高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経を思いこの名句を詠んだ。

「夏草や兵どもが夢の跡」http://www.bashouan.com/ptBashouHI.htm
俳聖 松尾芭蕉 みちのくの足跡のブログより 多くの写真がおさめられている。

武蔵坊弁慶ベンケイ(没1189年)は、平安時代末期の僧兵だ。弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、帯刀する武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋(『義経記』では清水観音境内)で笛を吹きつつ通りすがる牛若丸、後の義経と出会う。弁慶は義経が持っている見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。五条の大橋で源義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。

上方落語にこぶ弁慶という話がある。喜六、清八が伊勢参りに行った時に出合う荒唐無稽な話だが、桂枝雀の話は旅で面白いものに出合う楽しみを伝えてくれる。
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo37.htm

大津の宿で好きな物を言い合っていたら、壁土が好きだという男がいた。この男、すすめられるままに宿の壁土を食べる。翌朝からえらい熱が出てかごで家に戻る。二、三日で熱は下がるが肩にこぶができる。やがてそれが人間の顔のようになり、ものをしゃべるようになる。
そして自分は武蔵坊弁慶であるという。壁土の中の大津絵の中から蘇ったのだというのだ。一日飯は二升酒は三升時々気晴らしに連れて行けという。
困ったこの男、友だちのすすめで蛸薬師さんへ、イボと偽って取ってもらう願掛けをする。百日目、寺町で大名行列に出会う。弁慶は、行列の前に立ちはだかり大暴れ。そして寝てしまう。男は手討ちにするという大名に、自分ではなく肩の弁慶のせいであると訴える。

枝雀の落語では、
そこで、大名は「何、瘤の弁慶とな。ん、相手が弁慶のことであればこの手討ち“よしつね”にせねばなるまい」といってオチになる。

進退きわまることのたとえで、「弁慶の立ち往生」という言葉があるが、義経が兄源頼朝に追われて、藤原泰衡に衣川の館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。

国道4号線を少し進むと、歩道橋がある。自転車をそこで駐輪し、中尊寺にまいることにしよう。歩道橋の下の中尊寺の入口には弁慶の墓と伝わるものがあった。

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閑山カンザン中尊寺。黄金の光に包まれた阿弥陀堂・金色堂で有名なこの寺は、平安時代後期、奥州藤原氏初代の清衡キヨヒラによって造られたみちのくの古刹だ。

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表参道口から杉並木の月見坂を登れば、八幡堂を経て弁慶堂がある。
武蔵坊弁慶と源義経の木造が置かれている。弁慶とともに、800年以上前、悲劇が伴った為にはじめて日本でヒーローとなった義経がいた。

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さらに登ると中尊寺の本堂がある。

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中尊寺金色堂と讃衡蔵サンコウゾウに入るには800円の拝観券を買わなければならない。とりあえず、先に1591年伊達政宗が能を観覧した記録が残るという白山神社能楽堂を見ていこう。
杉木立の中に茅葺屋根の落ち着いたたたずまいの能舞台。有名な建築家ブルーノ・タウトが絶賛したという豪壮で趣のある舞台がある。
ブルーノ・タウトはドイツ人であるが、日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した建築家である。

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白山神社の敷地内には、山口青邨ヤマグチセイソンの俳句の碑がある。
「人も旅人 われも旅人 春惜しむ」
旅人の句は明らかにここを訪れた芭蕉への思いがある。

讃衡蔵サンコウゾウと中尊寺金色堂を通り過ぎれば、松尾芭蕉が金色堂の旧覆堂の横に緑の中を歩いていた。現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、24時間体制で温度・湿度が調整されている。でも芭蕉が見た金色堂はこの旧覆堂の中で光を放っていた筈だ。

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http://www.chusonji.or.jp/annai/konjikidoh/index.html

「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」

松尾芭蕉は忍者であったという説がある。
その根拠としては、
・伊賀の出身であること。伊賀は古くから忍者集団が住んでいたところだ。
・芭蕉一族は代々連歌で秀でていた。連歌師は様々な人と接触するので、情報収集が匠であった。
・奥の細道は、一日に二十里、48Kmを歩いているが、その年から見れば修行を重ねている忍者にしかできない。150日で2400Kmは普通の人には不可能である。
・芭蕉が旅したのは、徳川幕府の外様大名の領地であり私財の無い芭蕉の旅が可能であったのは、資金が幕府から出ており、全国の大名の状況を報告していた。
・陸奥を中心にしていたのは、不穏な伊達藩を探索するのが目的であった。
・忍者・芭蕉への命令者はあの”黄門さん”水戸光圀公である。(ふたりとも、同時代の人物)
・スパイのねらいは、当時の水戸藩にとって日本海の諸港を回る東回り海運は藩政の重要なウェイトを持っていた。そこで港や河川の状態を調べた。尾花沢や酒田など最上川近くには長逗留している。
等々・・・

本当のことは分からない。でも、源義経を迎えることによって奥州藤原三代の栄華はついえることとなった。その上に、旅情の風をよそおい芭蕉が情報収集のために、平泉を訪れたとしたら。
エル・ドラードは南米のジャングルの奥深くにあるとされる黄金郷である。奥州は日本の「エル・ドラード」であり、やはり哀愁に満ちた場所でもある。

以前に訪れたことのある芭蕉ポイント
EOSと松尾芭蕉と江戸の細道
http://takeone0124.at.webry.info/200607/article_1.html
藁人形と解体新書(ターヘル・アナトミア) 千住宿
http://takeone0124.at.webry.info/200609/article_2.html

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