藁人形と解体新書(ターヘル・アナトミア) 千住宿

I-Podのイヤホンを耳に突っ込んで、デジカメバックぶら下げ出発だ。気がつけばI-Podの曲も、ジャズと落語で5000を超えてしまった。めざすは千住宿。

I-Podのスタートは、Wes Montgomeryの「The Incredible Jazz Guitar」 僕が最初にジャズに目覚めたアルバムだ。ギターもさることながらTommy Flanaganのピアノが最高。ランダム選曲にすれば、最近I-Podに導入した曲を優先的に流してくれる。これはなかなか優れものだ。

千住宿は品川、板橋、内藤新宿の江戸四宿のひとつで、人口からすると一番大きかった。奥州街道・日光街道の江戸から最初の宿場だそうだ。
日光街道とは、江戸時代の五街道の一つで、日本橋を起点として、千住から宇都宮までの奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて日光に至る道。
奥州街道とは、やはり江戸時代の五街道の一つで、千住から宇都宮までの日光街道を経て、陸奥国(青森県)に至る街道のことだ。

【江戸時代の千住宿】
日本橋から2里8町(8.7km)、家数2370、旅籠55、約1万人の人が住んでいた。千住宿は小塚原(荒川区南千住)の千住南組、千住大橋から千住まで(足立区千住橋戸町、千住河原町、千住仲町、)を千住中組、足立区千住1-5丁目が千住北組として構成されていた。
實永2年(1625)千住1-5丁目の千住北組が千住宿として指定され、本陣もここに有ったが、後に万治元年(1658)~寛文元年(1661)に小塚原など5町が加わった。
嘉永2年(1849)の文書では、一般の客を泊める平(ひら)旅籠屋と飯盛り女の居た食売(めしもり)旅籠屋の別があったようで、平旅籠屋は千住1丁目に多く、食売旅籠屋は2,3丁目に集中した。四宿のこういう場所等を「岡場所」と言った。
文禄3年(1594)隅田川に初めて千住大橋が架けられ、奥州街道の利用度を大いに増した。また家康を祭る東照宮が完成した後は、日光街道の重要度も増し、最初の宿場としての千住は道筋も長く、大いに栄えた。しかし、江戸四宿はどこも江戸から近すぎて、旅の宿泊者は少なく、岡場所として栄えた。


落語の「藁人形」はここが舞台となっている。

【藁人形】
神田のぬか問屋「遠州屋」の美人で一人娘お熊は今は身を持ち崩して、千住の若松で板頭を張っている(売れっ子No1のこと)。毎日、表を通る千住河原町(志ん生は、千住のいろは長屋への九番)に住む西念と言う乞食坊主を父親の命日だから供養してくれと呼び込み、部屋に上げ親切にしてあげる。父親に生き写しだから、父親代わりに親孝行をしたいとの話で、爪に火を灯す思いで貯めた全財産30両をかたり取ってしまう。70の歳を越えた身体にけがまでさせて、追い返してしまう、お熊。そこで長屋に帰った西念は恨みを込めて藁人形を・・・

藁人形(わらにんぎょう)は、藁を束ねて人間の形を模した人形のこと。丑の刻参りで、呪いの道具として用いられる。本来は、五寸釘を使い、丑三つ時に藁人形に釘を打ち込むのだが、落語では鍋で煮る。なぜなら相手はぬか問屋のお熊。ぬかに釘では殺せないというオチ。でもなんだか不気味な話。

日比谷線の南千住南口で降りてすぐ近く、日比谷線と常磐線に挟まれた狭い三角地帯が「延命寺」だ。ここには、首切り地蔵尊が有る。隣の本家回向院が、常磐線で二分されてしまったので、昭和57年11月に独立開山したそうだ。
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本家回向院(南千住5-33)も小塚原の処刑場跡に創られたもので、ここの首切り地蔵尊は、花崗岩で作られた座像で、寛保元年8月(1741年)刑死者の菩提を弔うため建立されたものだそうだ。

また、横にはなぜか重盛の人形焼・重盛商店がある。
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小塚原処刑場は、間口60間(108m)奥行き30間(54m)、1800坪(約6000m2)の広大な刑場で、徳川幕府初期から開場され「浅草はりつけ場」と称され、220余年間に20余万人が処刑されたそうだ。
平均すると年間900人が何らかの理由で処刑されており、なんと1日にして2-3人が露と消えていたことになる。この他にも江戸には鈴が森に同様の処刑場があったが、桜田門事件、坂下門事件の首謀者や橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、二・二六事件の首謀者も此処回向院に埋葬されているそうだ。

でも、おどろおどろした話ばかりではない。小塚原の処刑場で杉田玄白、前野良沢らが刑死者の死体の腑分け(解剖)を見学し、その正確さに驚き、日本で初めて、ドイツ人クレムスの「解剖図譜」のオランダ語訳「ターヘル‐アナトミア」を漢文訳したそうだ。
「解体新書」として、安永三年(1774年)に刊行。それを記念して、医学界からこの本の表紙をモデルにレリーフが作られ、1階駐車場の壁にはめ込まれている。この解体新書以来、日本の医学は大きく発展することになったのだ。
『蘭学事始』(らんがくことはじめ)は文化12年(1815年)83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記だそうだ。
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 「藁人形」の舞台がこの南組、”コツ”の南千住だ。コツは刑場の有った小塚原(こづかっぱら)からとも、掘ると骨が出るので(志ん生)、骨=コツといわれたそうだ。この街道をコツ通りというそうだ。
こんなすさまじい所の近くに歓楽地と商店街があるのが不思議な気持ちになるが、商店街の中にある豊川稲荷の横の案内図には、コツ通りの名称が残っていた。
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商店街が終わり、4号線の国道日光街道に出る。突き当たりに、素盞雄(スサノオ)神社(南千住6-60)、別名千住大王がある。子供を抱えた家族連れが数人いた。
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此処には松尾芭蕉が奥の細道の最初の句「行はるや鳥啼魚の目は泪」の有名な句を残し、奥羽から大垣までの約600里、半年の旅に立った。その記念碑が建っている。左側に楷書体で書き直された銘板があるが、石碑の流れるような書体では、ひらがな交じりでありながら半分も読めない。深川で落ち着くことはできなかったのだ。

素盞雄(スサノオ)神社の近くには、天王公園がある。出雲のスサノオはここまで進出していたのか。それとも誰か違う人なんだろうか。日本全国に数多く素盞雄(スサノオ)神社があるのはなぜなのだろう。
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その先、目の前の隅田川に架かった千住大橋は、今は銘板には右から「大橋」とだけ刻まれている。深緑色の下り専用の橋になっていて、4車線の上り専用橋にはアーチも無ければ、色気もない。この鉄橋は昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋だったそうだ。
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千住大橋は、徳川家康が江戸に入った天正18年(1590)の4年後に、伊奈忠次が普請奉行となり、隅田川に最初に架けた橋だったそうだ。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事だったそうだが、家康が没し、日光東照宮へ改葬されると、千住宿の通行量は増大し、江戸の四宿の一つとして繁栄したそうだ。
江戸が崩壊したとき、最後の将軍慶喜が江戸城を脱出し、出身地の水戸へ謹慎蟄居のために江戸を去るときに渡ったのも千住大橋であったそうだ。江戸の始まりと終りがここにある。

橋を渡ったところには、少し川べりに降りられるところがあった。そこには大きな壁画が。
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隅田川を渡ると、右手に今も市場がある。市場の横には芭蕉の像が作られていた。
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俳聖 松尾芭蕉 みちのくの足跡
http://www.bashouan.com/psBashou.htm

ここからが、千住中組になり、旧道の宿場町に入っていく。この路はバイパスの国道とJRの鉄道との中間を平行して北進している。

藁人形の西念はここの千住河原町に住んでいた。西念は毎日、千住大橋を渡り、お熊の居る若松の下を抜けて、山谷から言問橋の橋詰めを抜けて浅草寺にお詣りしていた。多分同じ道を歩いたのかも知れない。

足立区千住1丁目に入ると、千住1-5丁目が千住北組になる。商店街のアーケードや街灯に飾られた小幡(ペナント)が賑やかになってくる。しばらく歩いた右手先には、北千住の駅がある。

北千住西口出口から、少し戻ったところに金蔵寺コンゾウジがある。本殿は閻魔で、ご利益のお礼にそばを供えたことからそば閻魔と呼ばれているそうだ。千住宿の飯盛女の菩提を弔う「投げ込み寺」で、現在も供養塔が立っている。
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山門を出て左へ、突き当たりを右に進むと、本町ホンチョウ商店街にでる。これが旧日光・奥州街道だ。街道を少し進むと慈眼寺がある。慈眼寺は、将軍が日光東照宮を参るときの休憩所となっていたそうだ。
境内には、安政期に結成された町人の火消し組「南北千住消防組」の碑がある。この近くに足立消防署があった。
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この近くには、正面が赤い門であることから赤門寺と呼ばれた勝専寺がある。ここには、千住宿と周辺の村に時を告げた「時の鐘」がある。
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このあたりの商店街は、路地に入るとクネクネし、次の道の予想がつかない。
I-Podの音楽がWeather Reportに変わった時、偶然バードランドというジャズスポットがあった。なんともこのあたりには似合わないけれど、おしゃれな店だ。また時間があればいってみたい。
道を間違えて、たどり着いたところに氷川神社があり、神輿が出ていた。
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千住高札場跡
千住仲町の北詰に高札場跡碑が建っている。高札場は、江戸時代に、幕府や藩から出される法令・規制を伝えるお触書(おふれがき)や重犯罪人の罪状を記して、人目を引く辻などに板札を高く掲げたところだそうだ。
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千住問屋場跡・貫目改所跡(千住1-4)
千住一丁目の南詰付近に千住問屋場(といやば)跡碑が建っている。問屋場(といやば)は宿の事務担当機関として街道を往来する旅人のために駕籠や人馬の継立などを行ったところだそうだ。今は、足立信金本店と旧区役所の敷地になっている。
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旧街道(本町センター商店街)をさらに進み、駅前の大通りを渡ると、旧街道はサンロード商店街となる。しばらく進むと、右手に宿場の木戸と高札を模した案内板が立っている千住本町公園がある。
この子供はいったい誰から隠れているのだろう。
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さらに進むと、千住宿の伝馬屋敷(幕末の建築)で、紙問屋を営んでいた横山家の住居がある。ここは、江戸時代からの商家の建物。文化財に指定されている蔵付きの立派なもの。今も使われている木造2階建ての重厚なもの。千住宿の昔が感じられる。小雨が降ってきた。傘を持たない私は、横山家の軒下で少し雨宿り。
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向かいの同じく古い商屋は、絵馬屋・吉田家。千住絵馬は、七色の泥絵の具で描く鮮やかな色彩が特徴だそうだ。
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右の路地を横山家の塀沿いに歩くと、長円寺がある。山門の左にある「めやみ地蔵」(子育延命地蔵尊)は眼病にご利益があるとされ、今も「め」の字を書いた千住絵馬がたくさん奉納されている。
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街道に戻り、さらに北に進むと、明和7年(1770)創業で、ほねつぎで江戸中に名を馳せた名倉医院がある。整骨医の本家本元だ。今も広大な土地と古くからの木造建物が有り、その中で現在も盛業中とのことだ。ここが千住の宿はずれとなる。すぐそこは荒川だ。
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ここで戻り、かどやの槍かけだんごの店を左折すると、色とりどりの手作り飴が並ぶ「石黒のあめ」屋がある。雨がまだ少し降っているのであめは買わずに通り過ぎ、商店街を抜け国道4号線を渡るとすぐ右手に風格のある大きな瓦屋根が見えてくる。昭和6年創業の大黒湯だ。北千住には今だに、20軒もの銭湯があり、日常的に使われているそうだ。
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雨で濡れたからだを大黒屋で流すこととした。裸のからだを脱衣場で乾かしていると、70すぎの年配の方が横に座っている。あれ! この人は、横山家、吉田家、長円寺をガイドブック持ってうろついていた時に、同じように一人で右手にパンフレット持って散策していた人だ。勿論、西念さんではない。相手も気がついたようで、なんとなく会釈して別れた。

千住には、藁人形の話や重盛の人形焼。小塚原の処刑場跡や、解体新書。人の形にかかわるものが多い。また、ほねつぎで有名な名倉医院や、慈眼寺や、めやみ地蔵などの治療に関するものも多い。千寿4丁目にある長円寺・めやみ地蔵の近くには千寿小学校もあった。
ひょっとして千寿製薬の発祥の地はここなのかも。そんなことないか。大黒湯で一風呂浴びてビールを飲みながら、雨の上がるのを待ち、サンロードを逆に帰り、北千住の駅へ。

スサノオについては
http://takeone0124.at.webry.info/200609/article_1.html
松尾芭蕉については
http://takeone0124.at.webry.info/200607/article_1.html

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  • 間口

    Excerpt: 印象的なブログですね。またきます。 Weblog: 良いモノ案内 racked: 2006-09-18 18:54