大川はミシシッピ川、浅草は日本のニューオーリンズだ

浅草は東京の歴史であり、日本の文化の中心であった。意外なことに浅草には、レコードやライブハウスなどのジャズの店が多い。2年前には、浅草の商店街の名物おかみがニューオーリンズの名誉市民となったそうだ。

ジャズ発祥の地といわれるルイジアナ州ニューオーリンズ。ここは、フランスの軍港だったこともあり、ヨーロッパからの船が着くところであった。アメリカの最も南にあり、ラテンアメリカの最も北にある町だ。

ジャズのはじまりは1900年ごろ、フランスから来た軍楽隊のマーチングバンドに心躍らせた黒人たちが見よう見まねで演奏を始めたのがきっかけだといわれている。当初は行進曲がレパートリーであったのだ。祭り好きな連中はパレードの人気者になり、その後酒場に進出するようになり、ニューオーリンズジャズが生まれたとされている。

マーチングバンド、アフリカのリズム、ヨーロッパから来たクラッシックの和音、黒人がもともと持っていたゴスペルやブルース。さまざまな音楽的要素が混じり合ってジャズは誕生した。

吾妻橋の西側が、神谷バーのある浅草一丁目だ。このすぐ近くが浅草寺だ。
画像

浅草には、坂が少ない。少し高くなっているのは待乳山マツチヤマのあたりだけで、あとはほとんどが東京湾の海底に沈んでいた場所だったのだ。大昔、海から顔を出しているのは浅草寺のあたりと待乳山のあたりだけだったそうだ。浅草は隅田川が流し込んでくる大量の土砂によってようやく陸地となった。まるでミシシッピ川の堆積土でできたニューオーリンズと同じだ。

ここはかつては海だった。だから浅草のりが名産であったのだ。浅草寺もその縁起によれば7世紀のはじめ頃らしい。

伝説では、7世紀の前半、このあたりに住む漁師の兄弟、檜熊浜成ヒノクマノハマナリと竹成タケナリがある春の日に、隅田川に網を打っていると、思いがけなく一体の仏像をすくい上げた。観音さまの像である。兄弟はそれを水辺の木陰に安置していた。そのうちに近くの農民がその像を祀るようになり、それを知った村長の土師真中知ハジノマナカチは、お堂を建てた。
こうして、檜熊浜成と竹成、土師真中知の三人は、浅草の偉大な創設者として、三社祭の祭神として祀られることとなったのだ。
画像

浅草寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA

檜熊浜成と竹成、土師真中知の三人は、朝鮮半島からの帰化人であると言われている。観音像の発見の百年以上も前から、朝鮮半島からはおびただしい数の難民が日本列島にたどり着き、その一部が、利根川の上流地帯に入植し、高い文化を作っていたのだそうだ。

浅草寺の観音像は、絶対の秘仏とされている。浅草寺の奥深く秘められたまま、観音像を納めた厨子は、けっして扉を開かれることはないそうだ。
お堂の奥に、神秘の仏像が隠されている、しかし誰もそれを見ることはできない。
浅草寺にみなが集まるのは、見たくても見れないものがそこにあることの魅力なのだろうか。
砂州の上にできた街である浅草にブラックホールがあり、そこに吸い込まれているのかもしれない。

ニューオーリンズで生まれたジャズは、その主な活動場所が、徐々にニューヨークに移る。
1920年代はフル・バンド形式のダンスバンドが流行った。グレン・ミラー楽団やデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団などだ。いわゆるスイングジャズと呼ばれている。
ただ、第二次世界大戦が終ったころには、ポップ・ミュージックが台頭してくる。
大編成のビック・バンドは維持が大変だ。そこで少人数のコンボで新しいジャズが生まれてきた。メロディも半音を多用し、リズムもシンコペーションが多く使われる。ビバップだ。

チャーリー・パーカー(as)、ジョン・コルトレーン(ts)、バド・パウエル(p)、マイルス・ディビス(tp)たちだ。彼らの生活はほとんど反社会的だ。でも音楽を探求する心はキラキラしている。他人と同じことをするな。過去と同じことをするな。自分らしくあれ。まさしく求道者の姿だ。僕は、この頃からモダン・ジャズにいたる時代が一番好きだ。

アメリカ最大の都市圏人口を持つニューヨーク市(約800万人)の中心にマンハッタン (Manhattan) はある。
その中に、ハドソン川とイースト川に囲まれたマンハッタン島マンハッタン区には、有名な5番街(Fifth Avenue)やブロードウェイ(Broadway)などの繁華街があり、世界中からの観光客をひきつけている。


砂州の上にできた浅草は、同じような砂州の上のマンハッタン島に似ている。マンハッタン島にブロードウェイができたように、浅草には「六区」ロックが生まれた。

仲見世
画像

伝宝院
画像

浅草寺と浅草神社
画像画像














被官稲荷とおいなりさん
画像画像













写経供養会
画像

毎年、10月28日は本堂で写経供養会が行われている。戦争で消失した観音堂が、昭和33年に再建され、これを機に「写経」が呼びかけられ、毎年この日に供養するのだそうだ。
浅草寺幼稚園の十人の稚児が美しい着物衣装で法要に望むそうだ。偶然、その場面に遭遇した。

浅草寺のまわりは、昔から芸能がさかんだった。浅草寺から六区にかけては、寄席や見世物小屋が建ち並び、道には大道芸の芸人もあふれていた。

奥山と影向堂ヨウコウドウと花やしき
画像画像













公園本通り商店街
画像

ここは、WINSの近く、競馬新聞を持ったおっちゃん達のたまり場だと思っていたが、意外にも外人が多い。その中の店で焼き鳥とホッピーだ。面した通りに壁の無いその店の隣の席では、ラッパーのような髪を後ろで結わえた30代ぐらいの若者と、武部さんに似た会社人生を卒業したというその人と、見知らぬもの同士で、政治の話がひろがった。なんとも浅草は奥が深い。

経済は、労働をしなければものは生まれないという常識が根底にある。
しかし、芸能はこの経済の原則に反して、ハンカチからハトが飛び出すように、ものは無から生まれるし、労働などしなくても、楽に金をつくることが可能であるということを証明している。
芸能こそが、資本主義の先駆けをなすものであるのかも知れない。モダンとはこの資本主義の精神とともに発達した。芸能の仕組みと資本主義のからくりは、とてもよく似ている。
そしてそれらの大元締めとして、姿をあらわさない観音様という、仏教的な無のからくりが、浅草の中心なのだ。(中沢新一)


伝宝院通り 伝法院の宝を持ち逃げするネズミ小僧までいた
画像画像













六区 浅草演芸ホール
画像画像














六区の先に、浅草演芸ホールがある。実は昨日、以前仕事を一緒にしたことのある大先輩と浅草演芸ホールで落語を聞きにいった。ホールはさすが週末でいっぱいの人。夜の部6:00から出演する三遊亭圓雀師匠。その人の知己の人だそうだ。仲入りになるのを待って圓雀師匠とその人と三人で食事をして帰ることになった。
ついさっきまで高座でしゃべってた落語家さんと席を一緒にできるのは感動だ。
さっきの演目の題を聞いてしまった。「転宅」だそうだ。これは聞いたことがなかった。
なんでも、その日の雰囲気で演目を決めるのだそうだ。これぞまさしくジャズのアドリブだ。
お酒が入った私はよせばいいのに、饒舌になってしまった。知ってる落語のこと、その地名と場所のことなど。釈迦に説法とはこのことだ。反省 !!

でも、さらに饒舌になってしまった。
なぜなら、圓雀師匠は、学生の頃ジャズマンになるか落語家になるかで悩んだそうだ。
また、ずっと楽器は続けているそうでクラリネット奏者でもあるそうだ。
パンフレットを一枚、いただいた。

にゅーおいらんず 特別公園 ディキシーの仲間たち
国立演芸場で11月23日 2時開演。
講談と落語、曲芸の後に、大喜利でそれら演者たちによるディキシーバンドの演奏があるそうだ。ニューオーリンズと吉原のおいらんをかけたバンド。これは是非いかなければ。

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/478.html

この場に声をかけてくれた大先輩に感謝。気さくに話を聞いてくれた圓雀師匠に感謝

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック