鎌倉新仏教 日蓮と道元 鎌倉大仏

平安仏教が貴族仏教であったのにたいして、鎌倉新仏教はあらたに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていったそうだ。小町通りに向かう道を鶴岡八幡宮に向けて歩いていると、八幡宮の手前に曹洞宗高祖道元禅師鎌倉御行化ゴギョウケ顕彰碑がたてられている。

道元の鎌倉御行化ゴギョウケとは、
越前福井の永平寺を開き、弟子たちの指導に専念していた道元が、例外的に約半年間(1247年)、鎌倉を訪れ、執権北条時頼やその奥方をはじめ、多くの人のために説法を行ない、関東に唯一足跡を残した鎌倉の地に建立した。
と書いてあった。門標には「只管打座シカンタザ」ただ座ると書いてある。

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鎌倉新仏教とは、浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)・時宗(一遍)・法華宗(日蓮宗・日蓮)を指すそうだ。円覚寺、名月院、建長寺もそれぞれ臨済宗の禅寺であった。新たに台頭してきた鎌倉武士、北条氏のよりどころは臨済宗の禅思想であった。江戸時代に徳川家康が儒学を官学とするまで、その地位にあったのは禅宗であり、栄西の臨済宗だったのだ。

ただ、道元はその点に問題を感じた。本来、禅というのは個人の修行の問題であり、国家権力とは関係が無い。道元は「正法眼蔵ショウボウゲンゾウ」を書いた。道元は、仏教の真髄は身心脱落シンジンダツラクにあるとした。身心脱落とは、精神や身体へのこだわりから離れた境地のことで、これを達成するために必要にして唯一の方法が、「只管打座シカンタザ(ひたすら座禅すること)」であるとしたのだ。

道元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
禅宗を日本に伝えたのは栄西であった。栄西は鎌倉政権に接近し、その国教となることで発展した。その延長上に道元は、禅宗をさらに個人の問題にまで徹底したのだ。

鶴岡八幡宮を過ぎて、段葛を歩き、鎌倉警察署を左折すると、日蓮上人辻説法跡がある。

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比叡山など各地で修行を積んだ日蓮上人は、建長5年(1253)に鎌倉に入る。当時の鎌倉は地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、不安と恐怖におののく人々を救おうと、松葉が谷の草庵から毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い、法華経を説いた。
「南妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟りだとし、法華経を信じる事を説いた。「政治が正しくなければ国も庶民の生活も安ずることが出来ない」また「為政者が邪教を信じ、法華経をないがしろにすれば”自界叛逆・他国侵逼難”となって日本は滅亡する」と予言していた。

日蓮上人38歳の時だそうだ。

このあたりには、日蓮宗のお寺ばかりがかたまっている。

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妙本寺の境内には、大きな日蓮上人が立っていた。

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小町通りに戻り、鎌倉駅で江ノ電に乗り換える。和田塚駅、由比ガ浜駅を過ぎて三番目の長谷駅で降りる。駅から少し歩くと長谷寺がある。奈良の三輪山ミワヤマにある大和の長谷寺を総本山長谷寺といい、こちらは鎌倉長谷寺だ。
http://www.hasedera.jp/01_hasedera/index.html

浄土宗系の寺院で、本尊は十一面観音。この十一面観音像は、大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。山門には大きな提燈がかかっている。

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梅の花が咲いている。弁天窟は、曲がりくねった洞窟になっていた。

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地蔵堂には、小さな地蔵さんが並んでいる。

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長谷寺を出て、少し北にのぼれば大仏殿高徳院がある。鎌倉に来れば、ここに一度は来なければならない。以前先輩と来たことがあるので、今日は2度目だ。
大仏殿は1495年の津波で流されてしまい、今は露座の大仏となっている。高さは12.38m、体重は120tだそうだ。胎内も20円で拝観できる。大仏の胎内は中空になっており、台座は免震構造になっていると書かれていた。

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大仏殿から元に戻り、長谷寺の手前を右に曲がると光則寺がある。
この光則寺も、日蓮宗の寺院だ。
http://www.kamakura-burabura.com/meisyohasekousokuji.htm

日蓮は、仏教の経典から妙法蓮華教を選択した。法華経のみが正しく他宗は誤った教えだと主張した。鎌倉仏教の中で、自分の名前が宗教名になるほど自分の教えが正しいとした。念仏は「南無阿弥陀仏」という。意味は、阿弥陀如来に帰依(信仰)するということだ。これに対し、日蓮宗では、題目を唱える。「ナムミョーホーレンゲーキョー」だ。
念仏が阿弥陀如来によって救われたことに感謝することであるのに対し、法華経ではこの教えを広めること自体に功徳(利益リヤク)があるとするのだ。だから団扇太鼓をドンドンたたく。自分以外は誤りだとするので、敵も多い。

日蓮の「立正安国論」は、「この国が平穏にならないのは誤った宗教を皆が信じているからだ。このままでは外国から侵略され国が滅びる。ただちに念仏はやめて法華経に帰依しろ」と鎌倉幕府の北条時頼に訴えたのだ。北条時頼は、禅宗の信者であった。当然うるさい日蓮は流罪にされた。

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日蓮上人が佐渡へ流された時、高弟・日朗が捕らえられて鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の重臣・宿屋左衛門尉光則の邸内の土牢に監禁された。しかし光則は日蓮上人が自らの不運を嘆くことなく、弟子の身の上を案じる心に打たれ、次第に日蓮宗に心を寄せる様になり、日蓮上人放免後は、邸を寺として日朗を開山と仰ぎ文永十一年(1274)に創建された。
日蓮上人の著した「立正安国論」は光則の父・行時から、文永元年(1260)に北条時頼に建白された。現在の本堂は慶安三年(1650)に建てられた。


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その後、本当に元寇が起こり、日本は存亡の危機に立たされた。しかし神風によって救われた。

長谷駅にまで戻り、江ノ島電鉄沿いに極楽寺方面に歩く。途中、星月の井があり、虚空蔵堂がある。
http://www.kcn-net.org/10ido/hosizuki.htm

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しばらく歩くと江ノ電のすぐ横に、御霊神社がある。ここは江ノ電の写真を撮るのにマニアが集まる場所らしい。3~4人のグループが三脚を立てて、江ノ電の通るのをまっている。

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私も思わず、反対側でシャッターを押した。

鎌倉は、仏教寺院の宝庫だ。

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逆説の日本史 道元と日蓮編より

浄土宗(法然)・臨済宗(栄西)・浄土真宗(親鸞)・曹洞宗(道元)・法華宗(日蓮宗・日蓮)・時宗(一遍)は、それぞれ同時代を生きていた。先人の教えを乗り越えたり、否定したり。仏教がインド人の釈迦(ゴーダマ・シッダルダ)によって始められたのは、紀元前500年前後とされている。鎌倉仏教がこんなに多様化するとはお釈迦様でもご存知あるまいだ。

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今日は、だいぶ歩いてしまった。I-Podに入っている落語の「こんにゃく問答」を聞きながら、極楽寺駅から江ノ電に乗り、鎌倉、大船経由で戻った。
http://www.pippo-jp.com/runde/spot/y03/kon-nyaku.html

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